2008年9月18日木曜日

Bryn Mawr College


フィラデルフィア中心部から電車で25分。北米を代表する名門女子大学・ブリンマー大学まで出向き、津田塾大学の創設者・津田梅子の資料にあたってきました。事前に図書館の特別資料室とのメールや電話でのやり取りを経て、ようやく迎えたこの日は緊張の嵐でした。

郊外の高級住宅街に位置する広々としたキャンパスには、石造りのずっしりとした建物が、ぽつぽつと住宅展示場のように配置されていました。これが密集していたらやぼったい印象になりますが、適度な距離と芝生や木々とのバランスで、多少退屈な、でも安堵感を得られる景色になっていました。遠くから聞こえる虫の声と、ときたま通る女子大生のさざ波は、のどかな秋の午後にさらなる眠気を誘います。私の母校のキャンパスによく似た雰囲気で、ふと懐かしくなりました。(日本ですよ)

1890年前後、2度目の留学先としてブリンマー大学を選んだ津田梅子は、生物学を専攻し蛙の卵の研究をしていたのですよ。その後、日本の女子英語教育の船出に向け生涯を捧げる事になる彼女の、もしかしたら唯一全てから開放され、純粋なる知的好奇心に没頭できた幸せな時間だったのかもしれませんね。

図書館には彼女の写真、当時の学長に当てて書いた直筆の手紙、日本語・英語の様々な資料などが私宛にまとめて用意されて待っていました。優秀な図書館員、バーバラに感謝。そしてこういった原物資料に素手で触れられたことに大興奮。一つ一つ目を通し、舐めるように瞳でスキャン。は、できないのでコピーを依頼したところ、1枚25セントとなかなかお高い!厳選し、結局手紙と、寄贈された津田塾大学紀要のコピーをもらってきました。また当時の寮や学び舎が現在もそのまま利用されていたので撮影。津田梅子の肖像写真のデータも希望したところ、手際よくメールで送ってくれました。

津田梅子で有名なブリンマー大学ですが、その後多くの日本人女性が留学をしており、なんと恵泉女学園の創始者である河合道(かわいみち)も通っていたという面白い発見もありました。新渡戸稲造の紹介で1900年〜1904年まで学んだ彼女はその後、津田塾大学で講師を勤めたり、日本YWCA同盟の最初の日本人総幹事に就任したりとキャリアを積み1929年、恵泉女学園を設立します。恵泉はクリスチャン系のお嬢さん大学ですが、授業に農作業を取り入れているのが特徴の一つ。キリスト教の精神からくるものなのでしょうか?でも何よりも気になるのが、以下ウィキペディアからの抜粋になりますが

「敗戦後、マッカーサーの高級副官として来日したボナー・F・フェラーズは、同じクエーカー派の大学に留学していた河井の一番弟子にあたる一色ゆり(旧姓・渡辺)と河井の消息を捜し当てた。フェラーズは二人を、1945年9月、昭和天皇とマッカーサー元帥が初めて会見をする4日前にアメリカ大使館に招待。天皇の戦犯問題について、二人の意見を取り入れながら、天皇不起訴を進言する覚書を作成した」

という点。なんだ、なんだ。津田梅子より遥かに面白そうじゃないか!と思ってしまいました。が、河合道についてはこのあたりでペンディングにしておいて、さて、これから持ち帰った資料と格闘です。

0 件のコメント: